個性を重んじた職場環境という言葉って、どれくらいなの?観念して考える方が良い気もする。

メディアさんの語るキャッチなコピーを探す時。学校の話の場合、個性を重要視した教育環境。職場の場合、個性を発揮させる職場環境というキャッチコピーがあると、気が付く事があります。

この頃は、国会を必ず一定期間エスケープされる野党さんは、更に少数派の意見を多様化を尊重しようと、耳障りは良いけれど、意味不明と思う言葉を発せられる。選挙中ですので、個人の意見と流して頂ければ幸いです。

交通事故が多い所なのかと、訝るような場所には、何故か飛び出すな!というポスターがあるように思えるし、学生時代は、廊下は走るな!って、言う感じのポスターが貼ってあった様に記憶しますし。そこで、個性を重視したという言葉を見ると、この感覚で読むと、実は個性など重視していない。そんな気もしますし。実際は、知りません。少数派の意見を尊重しようと、言う耳障りの良い言葉の裏には、何か嫌な香ばしい物を感じたりもしますし。私の性格が知れるという物です。

気が付けば、企業のみならず、政府にも個人的な写真からプライバシーの全てを把握される可能性(危険性というべきか)に対し、私達は何も考えていないのかもしれない。想像も出来ないから、仕方ないのかもしれない。監視資本主義が突き進むことの危険性を理解できない。(のかもしれない)

歯の形態上の課題を探り中

具体像を私は、理解できませんし想像も出来ません。唯、それは時間の経過と共に自然と(突き)進み、気がついた時はすでに監視資本主義が完成していることになる、?っていう事を後で気が付くのでしょうか。

そこに、メディアさんや(定期的に仕事を放棄する)野党さんを主体に、しきりに語られる個性的・多様的という言葉が職場に当てはめる事を当然という意識が蔓延するならば、実は、相当にややこしくなる。そんな事を感じます。

人が働く場合、私は「生きる為に働く』か。「食べる為に働くか」。どう頑張っても、これ以外、根底のエネルギーは無いと思います。

唯、監視資本主義の情報監視の完成には、裏を返すと「個性的・多様的」という言葉を、今までの価値観とは異なる方向で、蔓延させる事が出来るなら、実は、とても便利なツールになる気もします。”働いて稼ごう”という意識や、”良い給料を貰うために、しっかり働こう”や、”家族の為に頑張るぞ”が、古い価値になり(本当でしょうか?)、個性的に働くと多様的に働くを新しい価値規範にさせる。

実践的捉え方から、観念的捉え方に変える。私からすれば、これだけなのですが…、とても尊い思想の様に蔓延させている。

実践では、何とかシンメトリーに乗せるべく分析を行い、そこを目指す。観念で、シンメトリーが整うなら苦労はしません。でも、実社会では観念先行が、あたかも時代の先駆者扱い。どうなのでしょうね。不思議。

観念的捉え方は、正に漠然としたものが故に、情報を操るには「漠然とした個性的。極論的に多様的」という言葉を使えば、非常に都合が良い。情報を発する人は、観念的が故に、無限にその言葉と情報を出し続けられるし、情報に関し、操作というツールに変えた側は、永久的にその正当性を向こうに発信し続けられもする。

うってつけの言葉かもしれない。漠然が故に、幾らでも使える。

私は、これらの言葉「個性的・多様的」が、闊歩し続ける事。これを、とてもではないが発展と捉える事は、どうやら出来そうにない。

でも、それに影響される人間もいる。生きる・食べるより前に、個性的であり多様的でないと行けないという価値観もある。見方を変えれば、踊らされているとか、泳がされているとか、そんな言葉に集約されるのでしょうが。

だから、メディアさんの言う事は、端から斜めから見る様、個人としては心がけているし、テレビも見ないよう心掛けてもいる。

でも、それが、経営者の顔になる時、これらのマヤカシ言葉が具現化が出来ない時、辞めるに繋がるとは、つゆ、想像だにもしておりませんでした。社会や文化が発展する事は、大事です。でも、実際の現場での出来事は、私の主観でしか過ぎませんが、相当に、一部の(根拠も曖昧に、ただ思い込みしか無い)方々が安直に使用される「マヤカシのキャッチコピー」には、とても閉口しています。

*実際、この「マヤカシのキャッチコピー」シリーズで、どれくらい現場が混乱しているか、迷惑をしているか。こんなリサーチを、メディアの人もされれば、良いと思ったりもします。私の狭い世界の見聞でしかないですが、結構、ご苦労されている経営者も、おられるようにも感じています。どうなのでしょうか。それとも器量が狭いだけなのか?

私の価値観では観念的と見なせるコピーシリーズは、生産性の向上においては、観念の人に通じないと思うに限ります。ですので、仕事を進める上で、このコピーシリーズは、あるべきものから程遠いマヤカシというべき代物に感じて止みません。事実、生存には、どう見ても意味を成すとは思えないコピー、即ちマヤカシがまかり通る感覚はどうなのでしょうね。個体が生存する上でも、社会が運営されて行く上でも、私には、害悪しか感じられないようです。具体像が一切ない、唯、”フワ~っとした”権利の主張だけが、表に立ている様に感じるからでしょう。

寧ろそれぞれの”らしく”の方が、実は大事なのではと思う次第です。

観念の人は、中々、観念しないから厄介です。観念の人は、厄介です。観念するは、物事をはっきりと諦めるとか、未練を残さず割り切るという意味合いになりますが、観念の人は、何時まで経っても自説と、自分の想像力の世界から出て頂けないので、厄介な事、この上ない。そのように私は、観念する以外なさそうです。

そういえば、クリニックも新たな人材を補充しました。報告として。

 

 

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