働き方には多様化が促進されるべきだ。社会は、多様化を受け入れその備えをすべきだというのが、個人のあたしの理解。これが、何処迄、広く受け入れられているのか?あたしには、一切分かりません。ついでに言うと、働き方に関しては、そうかもしれないけれど…働く意義に関して本当に多様化なんてあり得るの?というのが、あたしの認識。
ただ、監視資本主義は進むのだろうな。進めば進むほど、多様化という言葉が、ひたすらに闊歩するのだろうなって、捉えています。そして、その多様化が進む分、それだけ個性が生れるという主張が、湧いて出て来るのだろうなと合点しています。多様化された働き方を、個性と何故か一体に見せる事が激しくなるのだろうと思ってもいます。それ自体に意味があるのだろうか?
正直、あたしが手前勝手に予測している事に対しですが、自ら勝手に違和感を覚えています。
多様化という意味合を知る上では、自然界の進化の世界を比較すれば何かを感じられるのでしょうか。ところで、監視資本主義に関しては、スマートシティーという、もしかしたら、未来像に、実はそのヒントがあるのかもしれません。あるいは、”そんな所まで、情報が管理されるのか”という具合に、驚きの事実があるのかもなって想像したりもします。
自然界の進化においては、動物も植物もその環境に合せ、適応する。その適応に、私達は個性という言葉で理解をする。この適応に対し、個性という表現を用いているだけで、決して、意識というのか、考え方に関し個性という言葉を用いない。これを忘れてはいけないような気がします。
つまり、仕事が多様化するという事で、多様の個性が生れる事はあるのかもしれませんが、働く意義というのでしょうか?意識の部分は、どう頑張っても多様化出来ないと思う。これは変わり様がない事実と思います。せいぜい、先に記した2つ。生きる為に働くか、食べる為に働くか。ここから、離脱は出来ないと思うのです。
スマートシティーという政府が進める単位というのでしょうか、益々情報把握は進むのでしょう。もっと、極論を言えば、個々人の情報管理までがインフラの中に組み込まれるを意味するのでしょう。
その時、働く意識の多様化という言葉が独り歩きをする時、あたしは、それ自体が嘘くさい気がしてならない。そんな事を感じるようになったという話です。それ以外は無いと思います。
個性は、個々に所属する物である事は間違いないでしょう。でも、意識を幾ら頑張って、多様化と言っても、あたしは限度があると思います。
そんなシマラナイ話でした。