・働く意識には、「生きる為に働くか」、「食べる為に働くか」これが、私の単純な頭で考える根底の部分。これ以上は、どうにも思いつきません。
・多様化とか、個性化とか、キャッチコピーは凄いけれど…テレビでホットスポットと言われる自然下の環境下の生物の形態上の変化を個性と捉えると、どうにも身勝手な価値観を、このコピーを利用して押し付けようとしている。この様にしか私には感じられない。これが、私の感性の薄い頭で理解できること。
そして、何故か、働くという行動自体にまで、個性を尊重するとか、多様化を尊重しようというキャッチコピーが蔓延しているのが、どうにもたまらんと言うのが、ここ迄の話。芸術や、洋服等の姿、ライフスタイルには大いに発揮されれば良いと思うのです。趣味もそうでしょう。大いに発揮されて行けばよい。(限度はあるかもしれませんが)姿や、時の過ごし方は、それぞれの個性が大いに発揮されても良いと思うのです。
でも、このコピーが、何故蔓延するのか。選挙だからでしょう。仕事は定期的に自主休職を為される野党さん、性(さが)と言えば良いのでしょうか、自分達の目指すものと違えば、情報を微妙に外すメディアさん。彼らだけが、一生懸命このキャッチ―を訴える聖人君子かのように振る舞われている気がしてならない。
そんな嫌な感じすら覚えます。能力に限界があり、それしか言わないのか、或いは、狙いを持って言動を発せられるのか。ここは、私には分かり様がありません。でも、押し付けられていると私は思ってしまいます。そして、私のように押し付けられていると思う側からすれば、見える事もあります。
反発といった類のエネルギーではないと思います。
特別な存在という価値観から、(根拠があるかどうかは別に)生まれた観念の世界。これを述べる限り、シンパシーを持った人間集団の、なんといえば良いのか分かりませんが、確実にオピニオンのトップに自分達を置く事が出来る。ピラミッド構造を作る事が出来る。このピラミッドが、社会に役立つか、そんな事は関係がない。
仮にあるならば、働き方改革で企業、社内、事業所内でピーピしている経営者に対し、支援する何かを考えるだろうし。働き方改革で、利益の維持と労働時間の狭間で、懐の厳しさを覚える多くの有権者に対し、何らかのプログラムを考えられるだろうし。少数の意見をと述べられるなら、日本人の少数の拉致された同胞に対し、積極的な解決案を出されるだろうし。オピニオンになれない意見、自分達がピラミッドの頂点に立てない意見は、少数意見とは扱わない。嫌な感覚しか覚えません。
転がっている声なき声に振り向く事など一切されないし、想像すらできない。特別な存在の方々は、今は女性の権利とLGBTが全ての模様です。これって、女性の社長に対し、もしかしたら、相当失礼な事をされている事を意味するかもしれないでしょうし、現状を受け入れているLGBTの方にも失礼なのかもしれない。彼らの頭の世界では、女性は(教育も満足に受けられず、社会には一切出ておらず)束縛され、LGBTの方は、牢屋に入れらている。そんなイメージをお持ちと、想像力が欠落している私には感じてなりません。
真に、国民が大事と言うならば、日本が大事と思われるならば、例えばメディアさんも行動が変わるかもしれない。
中国に、言いがかりの罰金を科された企業の事を積極的に報道を行い、中国の非道ぶりに泣かされる経験をされた企業の情報を積極的に出すでしょうし、或いは、その報告をする場を提供されるかもしれない。時に、定期的にお仕事をさぼる野党さんから、思いがけず報復の一手が提案されるかもしれない。
来年の事を思えば、うちもそうですが、傷んだ経済のお陰で、来年の税金はどうしようかという悩みを持つ方は多いと思います。これに対し、今の所答えは、借財しかありません。配る事に夢中になる前に、バラマキと張り切られる前に、雇用先の健康状態を把握する方が、少数意見を大事にする事よりも貴重だと思います。雇用先がしっかりとしているから、少数意見が尊重されるという当たり前のことが、全く持って見えておられない。
唯、観念の中でピラミッドを作り、私は・あなたは特別な存在という根底を、言葉巧みに利用する事が、凄く嫌なのだと思います。生きるという事実を前に、特別という概念は敵う訳がない。それを、勘違いさせるキャッチ―(コピー)がとても、嫌で腹立って仕方ないのだと思います。
この特別な存在という考えは、相当に厄介だと思います。
特別という感情は、仕事に向かうその人の持つ素直さを奪い。出来ない内から、反発や、言い分という我を通す事を求めてしまう。それが通用しないと分かれば、エスケープに勤しみ、最後は、居場所を失って辞める。特別という(感覚的、或いは心地よい響きの)存在が、一人歩きし始める時、働く根底のエネルギーが見失われる。傍から見れば後先を考えずの行動は、その人に、無間地獄のような苦しみを渡す。負の連鎖に陥ると言った方が良いかもしれない。この何処に、弱者を少数の人間を尊重する、守るという行動原理になるのか。私には見えません。
唯、一人一人にお金を配り、配るから豊かになる。本当でしょうか?仕事があるから、しっかり働けば昇給があるかもしれない。仕事があるから、豊かになるチャンスが来る。弱者を守るのは、配るから始まるのではなく、働く機会があってこそ始まるという意識も特別な意識を持った瞬間、不要となる。おかしな話です。
唯、オピニオンになりたい人が観念で作り上げたピラミッドの中に、あなたは特別な人ですと迎え入れ、その人自体は、苦しみに自らを置いているだけとなる。この事実を、一切触れない。
こんなイメージを、今、改めて思うようになっています。1年で2人も、特別な意識の下、お辞めになられる経験をすると、正直疲れて、こんな事を思うようになります。どうして、この人たちは、自分を特別という苦しい考え方をされるのだろう。どうして、特別な人と思う事を選ぶのだろう。特別と思う人しか面接に来ないのか、特別と思わなければやっていられない世の中なのかと。そんな事を考える訳です。
荒んでいるのでしょうか。
でも、厄介な事は、情報がピラミッドを作る事実を企業が気が付いてしまった。新たなピラミッドを目指す(おさぼり)野党さんも、新たなキャッチ―でオピニオンを目指しピラミッドを構築する事で顧客を抱え込もうとする(?)メディアさんも、既にGAFAの掌に踊らされている。そんな事を感じます。どうなのでしょう。
情報を支配する、コントロールする力は、何時しか、お株を奪われている。そして、哀愁を感じる私に問題があるのでしょうが、ピラミッドを作る事に(おさぼりが、決まりごとの)余念がない野党さんも、(自民党を下げる事に社命をかける)メディアさんも、彼らが目指すヒエラルキーの再構築に勤しまれている。平等という言葉は、本当に便利な道具にされたものと思います。
でも、情報を支配する・コントロールする。この流れは、決して戻らないと思います。私達が、自らに誇りを持つ事と、自分の存在が特別という意識を同義にする限り、この流れは大きくなる以外ない。濁流と言っても過言ではないかもしれない。
”らしく”そこにしか、この濁流でおぼれないコツは無いような気もしています。