働く人が、良い戦力になり、貢献してもらう。多分、雇う側にとって、必須の条件のような気がしています。
歯科のような個人事業の場合、私の能力が足りないせいかもしれませんが、実は、スタッフの教育はとても難しい。(これは、気が向いたら何かを紹介するかもしれません)
まして、ある程度の規模感があれば、仕事中の時間に教育する事が可能かもしれません。結果として、研修する事は、容易なのかもしれません。ところが、当院を含め、昔ながらの作りで構成されたクリニックは大変かもしれません。話を脱線させるかもしれませんが、続けます。
私が歯科医になった頃の、クリニック内のモデルの構成は、この20年ぐらいで私の解釈では、3回か4回ぐらい変わったように感じています。でも、従来の考えられた構成のモデルは、まもなく通用しなくなって、次のモデルに対する対応の必要に迫られているようにも感じます。実際は、どうなのでしょうか?モデルとは、クリニックの作りと理解をして貰えば良いでしょう。
私の分かる範囲での紹介になりますが…言葉でのみでの表現ですので、理解を得られるか分かりません。その市町村の人口÷全歯科クリニック数=一クリニック辺りの人数と計算をします。
歯科医が不足と言われていた時代、あるいは、歯科医という職業が儲かると言われた時代は、一クリニック辺り、3000人~5000人と言われていました。そんな時代は、当に終わっていますが。
かつては、患者が増える事が前提で、それに対応が出来る構造を歯科クリニックの構造・構成に求めていたように思います。この場合、臍というべき存在に、レントゲン室・印象(型取り)系の機材を、診療室の中央に位置付けます。そして、ユニットを扇型に設置して、医療者が縦横無尽に動けるよう、壁等の設置は行いません。そして、歯科の受付は小さい空間にして、場所を占めないような配慮がされます。市場経済的捉え方をすると、一クリニック辺り、2500人を切り始める時代となります。首都圏では、この人数構成の場所は、限定的にしか存在しないです。
しかし、一クリニック辺り1800人~2000人の時代を迎えます。すると、患者が増えるかも知れないが、患者は一定数しか集まらないと言われる時代が来ます。ここで、生まれるモデルは、ユニット3台・レントゲン室での組み合わせから設計を行う事が主流となって行きます。スタッフは、院長を含め、常勤の医療従事者は2人あるいは、3人モデルという構成が主流となります。このモデルは、扇型の一時流行った、或いは合理性が高いと言われた構成モデルを壊したモデルとなります。この時代に入り、個室型の診療室が主流となって行きます。受付構成は、やはり場所を稼がないよう狭い事が当たり前だったように捉えています。
次の対応は、一クリニック辺り1500人~1800人の時代が来た時です。患者は一定数集められる事が前提ではなく、一定数集める工夫を求められる時代となります。インターネットの時代(Yahooが一番輝いていた時代なのでしょうか?)ユニットは2台で医療従事者は、歯科医を含め、2名が主流となります。
次の時代は、一クリニック辺り、1200人~1500人。この人数が対象になると、ユニット3台を基本パッケージにするか、ユニット2台を基本とするモデルにクリニックは、歯科診療所の形態を整えていきます。
さて、時代と称していますが、地域・地域で、一クリニック辺りの対応人数の枠は違います。一クリニック辺り1200人未満という地域もあります。当院がある府中は、1200人未満の地域と認識しています。
そんな背景もあるして、規模感は全体的には小粒にならざるを得ません。とはいえ、もともとこの業種は、卒業して何年かしたら開業するというのが、当たり前の職種でした。だから、小粒と表現しても、あまり差異を感じられる方は居られないかもしれません。ユニットの数はさておき、一人の院長先生に2人のスタッフという構成が、最も多い姿というのが、実際でしょう。制度設計は変わり、国は開業するだけではなく、勤務医として歯科医人生を終える生き方を求め始めて久しいような気もします。ところで、どこまで若い先生にはその意識背景が芽生えているのか(開業しないで済む生き方が浸透しているのか)。あるいは、私らのような開業医が、永続的に勤務医を雇用する意識と準備を終えているのか。個人としては、とても興味深い所でもあります。
さて、一クリニック辺り2800~2500人であれば、医療の質はともかく、歯科医がスタッフ2名を雇用して3名が十分に生計を成り立たせる事が保険診療を基本に出来ると言われています。寧ろ、その人数を切る時、各歯科医は、保険診療だけではなく、保険外診療を生計の為に求めざるを得ない。
私が歯科医になる頃、保険外診療を志向する歯科医に対し、私自身を含め眉をひそめた物です。そういう意識傾向が強かったと表現する方が適切かもしれません。不思議な事に、別の事実を臨床で生きる内に、理解できるようになるから困ります。
そもそも歯科の保険制度の(医科は、新病名も新技術も制度設計に反映する事が決め事としてあります)設計は1960年代を基本にその構成を変えていません。ところが、研究も進めば病名は増えます。見つかるという表現が妥当なのでしょう。歯科医療技術が進めば、保険の技術では対応できない現実とも直面します。医療という生き方と、医業という生き方で、葛藤を眉をひそめた側がするから、人生は趣深いという事にしておいてください。
私の理解ですが、歯科の保険制度の制度設計は、益々、健康管理・医療管理・安全管理という視点では、その精度は高みに運ぶよう進んでいます。ここは、誤解されないでほしく思います。
ただ、歯科医療結果では、どうしても保険の技術範囲では太刀打ちできない事を認めざるを得ない。ま、当院は自ら出した理念と照らし合わせクリニックのありかた方を選んだ。そんな歴史もあります。
さて、歯科教育も、歯科衛生士教育も、保険に対応すべくの教育を受けます。これは、大事な事です。むしろ、保険外と言われるジャンルは卒後研修という位置づけになります。個人の主観になりますが、卒後研修の必要性の認識は、歯科医よりも歯科衛生士の方々の方が弱い気もいます。歯科医においても、研修会の参加人数は減っているという実際があります。ただ、新卒性の数は、私の新卒時代より1/2~1/3という事実がある事。そして、卒後研修は、当時も数パーセントが学ぶ程度でしたので、一概の比較は難しいと思ってもいます。ただ、これだけですと衛生士の方には失礼に当たります。研修を受けても、勤務するクリニックで反映する事が難しい可能性がある事、給与に評価される可能性が低い事という点も、動機が低くなる要因かもしれません。
さて、教えるキャパシティーの問題(教えるスペースの問題)・時代背景から生まれる治療技量・医療理念の差の問題。これに対し、もしかしたら教わる側の意識・器の問題も含め、手前勝手に難しいと感じているのかもしれません。
当院は、発想を変え、週1研修制度を2~4時間設ける様しました。また、新人においては、研修プログラムの下、教育を渡すという制度を個人事業レベルといえ準備する事としました。項目を紹介すると、えげつない気もしますが、どうぞご容赦を。将来的には、医療管理(滅菌対策・感染対策)安全管理(医療事故対策)・患者管理(治療カンファレンス)という項目を、研修とは別に設けないと行けないのだろうと長としては予測し始めています。その時間内では収まらず、おそらく月1は、半日程度、逆に必要になるのだろうと、嫌な予感すらしています。これは、国が求める先に紹介した太字部分に対するクリニックの対応という位置づけでしかありません。デジタル化から、大学病院並みの整備が出来るとお考えになられるから、複雑な感覚しか覚えません。デジタル化で、社会が変わるという発想は否定しませんが、求められる挑戦は、個人としては無謀とすら思えてなりません。期日が決まっていない分、挑戦と捉える事にしています。
全てのクリニックが、仮に国が求められる項目を達成出来たら、凄い事でしょう。
こんなリアルを前にする時、個人としてはデジタル化が必要な発展のツールとして受け入れるとしても、些か疑問を感じます。見方を変えれば、人の意識に、そこまで介入して良いのか。困った事に、医療という側面から見れば、妥当性を感じざるを得ません。だから、挑戦を(渋々)考えたく思いますが、でも、これは、相当な分断を生む根源にならないか。急ぎすぎていないか。そんな事を考えたりもします。これは、個人の見識でしかありません。唯、そこまで、社会として変える事を求めるなら、クリニック単位として研修制度に対する人的補償・財務的補償。ソフト・ハードとしての公助があるべきと思えてなりません。自助を基本として、求める内容が公すぎる物だから、そう感じるのだと思います。あまりに高いハードルです。
デジタル化の共有すべき事は、世界標準(デファクトスタンダード)に納める事だけとは思えません。 私の国において(日本において)、「デジタル庁」は2021年9月に立ち上がりました。日本社会は、結果として、あまりにもDX(デジタル・トランスフォーメーション)に遅れているそうです。ですので、デジタル庁によって社会が前進するのは良いことなのでしょう。これを止める事も出来ないでしょう。ですが、邪悪で腐敗した議員なのか、役人かは分かりませんが、邪《よこしま》な考え方でデジタル庁を運用する事が可能となれば、それは容易に「デジタル《監視》庁」になっていくことになるのかもしれません。これは避けたい。
これが悪魔の手立てなら、監視資本主義の手法は未来を悪夢にする気がしてなりません。世界各国の政府も、時の流れのままに取り入れる事になるのでしょう。その時は、”らしく”に立ち返る以外ないのかもしれません。